丹下幸平@窃盗犯108号
 
みなーみBlog
 



千石の壷 4

 『千石の壷』この壷の由来から今回は語ろう。

 16世紀、室町幕府が実質的に瓦解した戦国後期、いわゆる織豊期と呼ばれる時代の始まる直前に全国の戦国大名が取り合った中国製の壷の一つである。正式には『砂原』と呼ばれるのであるが、戦国時代の音をかけて『千石の壷』と俗名で呼ばれる事が多い。
 砂原と言うのは、当時の豪商だったとされる『砂原剛三郎』なる謎の人物がこの壷の流行に一役かったらしいからだ。一般的な歴史家からはその実在は否定されているが、この人物は実はこの壷の流行よりもむしろ当時起こった、急速な鉄砲の全国普及の黒幕であると、江戸初期の文献にまことしやかに語る物が数点存在する事で知られている。
 俗名こそ『千石』とされているが、もっとも流行が過熱した16世紀半ばの頃には一国の主が、それこそ何千石と言う高価な値をつけて買ったそうだ。一説によれば若き日の信長もそれを所有していたらしい。

 その後、利休などの文化人の登場する頃になって、何故かこの壷の流行は一気に沈静化してしまい、歴史からその姿を消してしまった。今残っているのは奈良の博物館が所蔵する一点と本願寺が所有する一点のみで、民間の所有者は全くいないとされていた。しかしそれを所有していたと言う事が鮎川老人の死後その目録から明らかになったのである。


 本物であれば値のつけようも無い珍品であった。


 その珍品が、老人の死後、突然消えてしまったのだ。生前の彼に何故か慕われ蔵の中にも何度も入った事のある愛理に両親は何者かに殺される前日、問いただした。彼女に贈られる事になっていた美術品の一点にそれが含まれていたためだ。

 当然、彼女は、そんな事知るはずが無かった、しかし優しかった両親は、その日初めて彼女に見せる表情で目の色を変えて詰問してきた。当然のように派手な口論が繰り返され、いたたまれなくなった彼女は夜中に家を飛び出して東京の賃貸マンションへと引き上げたのである。

 その翌日、千葉の豪邸の寝室で愛理の両親は拳銃で何者かに惨殺されてしまったのだ。葬式の直後、悲しみにくれる彼女に警察は何度か事情聴取を行ったがまだこの段階では疑われてはいたのだろうが警察もはっきりとはそれを態度には示さなかった。それが二週間前、何者かの密告により警察が動いたのである。



「まぁなぁ、こんな物騒な物もってっちゃぁ、何言われたって弁解できねぇよなぁそりゃ」



2月2日(金)22:21 | トラックバック(0) | コメント(0) | 丹下幸平 千石の壷 | 管理

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